そのころ・・・ 悲劇の小笠原

2010年09月19日/ 島の話題

 1941(昭和16)年、島民の男子は、大半が軍の要塞づくりに従事させられた。また軍隊が続々と上陸し、父島や母島の各地に分散して駐留(昭和19年。父島約15,000名、母島約6,000名)したために、島の人口は数倍にふくれあがった。
 この年の12月8日、日本はアメリカ・イギリスなどの連合国に対して宣戦を布告し、太平洋戦争に突入した。そして父島や母島は、硫黄島の兵站基地としての役割を果たすことになったのである。
 1943(昭和18)年になると、戦局はますます日本に不利となり、1944(昭和19)年に入ると、小笠原近海では潜水艦による砲撃や魚雷攻撃で沈められる船が激増し、父島や母島に対する空襲もひんぱんとなり被害も大きかった。そのため軍需品はもちろん、食料の補給も困難となり、深刻な食糧不足となった。
 特に、兵士たちは、飢えをしのぐために何でも食べたらしく、中にはギンネムの実を食べたために頭髪が抜け落ちてしまったという話もあり、餓死した者も多かった。
 4月3日、島民の強制疎開が開始された。手荷物数個しか持ち出しが認められず、岸壁や道路脇に置き去りにされたたくさんの荷物は、アメリカ機による空襲で大部分が焼失してしまった。
   ・・・中略・・・
 この年の6月15日、アメリカ機による最初の空襲があり、島民は山中に掘られた暗い壕の中で、暑くて苦しい生活を何日も送らざるをえなかった。
 海岸では、兵士の遺体が運ばれて並べられていたし、港では黒い煙をはいて船が燃えていた。

   ・・・後略・・・

「ひらけゆく小笠原」 小笠原村教育委員会 中学校社会科副読本編集委員会編著 昭和60年
          (P.93 資料「悲劇の小笠原」) より引用

 1944(昭和19)年6月12日攻撃された浜江丸が漂航をつづけ父島にやっと辿りついたころ、
父島も激しい攻撃を受けるようになっていた。
 「約15,000名駐留」 「深刻な食糧不足」 「島民の強制疎開」等々や、
1000kmの離島の隔絶感や、夏の蒸し暑さも加わり、どれほど大変だっただろう、
当時の苦労がしのばれる。
 1980(昭和55)年頃の1日数時間の給水制限や、1983(昭和58)年11月の台風17号等、
私にとって大変だったことが生易しく感じる。

 こんな苦労を潜り抜けた島民の方々、
よくも絶滅せずに生き残ったアカガシラカラスバト等、
本当に大切にしなくてはならないと思う。



タグ :小笠原

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Posted by おがししょ at 21:35│Comments(0)
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