硫黄島 沖縄・慶良間列島 1945.3.26

2010年03月26日/ 大切なこと

 栗林率いる部隊は、海岸に沿って摺鉢山方向に南下、翌26日午前5時過ぎに海兵隊と陸軍航空部隊の野営地を襲撃した。・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・

 栗林が息絶えたこの朝、硫黄島から西に1380km離れた沖縄・慶良間列島に米陸軍第七十七師団が奇襲上陸した。住民を巻き込み、10万ともいわれる民間人犠牲者を出すことになる沖縄戦の始まりであった。
      「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」 梯久美子著 新潮社 2005 より引用


・・・・・摺鉢山、玉名山をはじめ巧妙に隠蔽された日本軍の洞窟陣地に、米軍は多大な損害を強いられた。「地上の米軍」対「地下の日本軍」という構図が、硫黄島における戦闘の最大の特徴だった。5日で島を占領する予定だった米軍は、その攻略に5週間かかっている。3月26日、島北部に追い詰められていた日本軍残存兵約400名が総攻撃を行い、組織的抵抗は終わった。
 日本軍の戦死者1万9900名、戦傷者1033名。一方の米軍は戦死者6821名、戦傷者2万1865名。米軍の死傷者が日本軍のそれを上回る激戦地であった。
       「女ひとり玉砕の島を行く」 笹幸恵著 文藝春秋 2007 より引用(終)


 遺骨の調査及び収集は、昭和27年から平成14年度末までに発見・収集された遺骨の数は8,383柱となっている。
 地上における遺体は、米軍によって処理されたと考えられており、一般に目につかないジャングル内には若干の遺骨があるものと推測されている。地下壕は全 長18kmもあり、壕口も数千箇所あったといわれており、米軍の手により閉鎖された地下壕も多く、地下壕内部の遺骨の状況は不明な点が多い。

       小笠原村HOME > 概要 > 硫黄島 > 概要 遺骨収集 より引用
         http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/outline/ioutou/development.html

65年経っても、多くの人たちの遺骨が見つかっていない
地下壕の奥での苦しみを背負ったまま眠っているのだろうか

しかし、硫黄島に行ったとき
大きな安らぎに包まれ、まるで見守られているようだった・・・

65年前の今日、戦争は硫黄島から沖縄に移った
新たな悲しみが始まった日


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Posted by おがししょ at 23:16│Comments(0)
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