硫黄島 1945.3.10 

2010年03月10日/ 大切なこと

 米海軍の従軍記者だったリチャード・ニューカムは、著書『硫黄島』で、3月10日の東京大空襲を「戦争中最大の破壊攻撃」であるとして、「この攻撃は紀元六四年にネロがローマに火をつけたよりも、一六六四年のロンドンの大火、一八一二年のモスクワの火災、一八七一年のシカゴの大火事、一九〇六年のサンフランシスコの地震などのいずれより残忍であった」と書いている。
 焼失面積は江東区・墨田区・台東区にまたがる約40km²。まず先発隊が目標区域の輪郭に沿って焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民が逃げられないようにした上で、内側をくまなく爆撃した。いわゆる絨毯爆撃である。
 高温の油脂が燃えるのだから、ただの火事とは違う。火は雪崩のように地を這い竜巻のように空に舞い上がった。B―29の乗員の証言によれば、すさまじい火災の熱によって乱気流が生じ、低空で飛ぶ機体を激しく揺らしたという。人間の力で消火することなど不可能で、人々はただ逃げまどうしかなかった。
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 帰路、機体に損傷を受けた2機のB―29が硫黄島の滑走路に着陸した。また14機が近くの海に不時着水し、そのうち5機の乗員は救助された。
 これほどの大規模攻撃でありながら、東京大空襲に参加した334機のB―29のうち、未帰還機はわずか14機であった。この損害の少なさには、硫黄島の存在が寄与している。東京を焼き尽くすという大仕事を成し遂げた英雄たちを、もとはといえば日本軍が建設した滑走路が救ったのである。
 その滑走路からわずか数百メートル北では、依然として日本兵たちが苦しい抵抗を続けていた。自分たちは本土の日本国民に代わって、降りそそぐ砲弾をいま受けているのだ。自分たちが敵の攻撃に耐えているうちは、父母も妻子も無事なのだ―――その思いだけを心の支えにして。

     「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」梯久美子著 新潮社 2005 より引用


東京大空襲の焼夷弾使用による無差別戦略爆撃
炎の凄まじさ、逃げ惑う100万人もの人々、黒焦げの死体の山

そして硫黄島の地下壕での地獄

65年前の日本の姿に圧倒される



参照:
「東京大空襲」史上最大の虐殺
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html

東京大空襲・戦災資料センター
http://www.tokyo-sensai.net/concept/index.html


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Posted by おがししょ at 23:50│Comments(0)
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